芭蕉や西行など日本の古典美や、古典ギリシャ、古典中国の美まで。縦書きでお送りする美についての断章

巻頭  もくじ  哥座(うたくら)本巻

  

   種 々 
    哥座(utakura)座 雑記帳


  


        もくじ



哥座(utakura)日記 

コスモス世界の誕生 - ギリシャ・デルフォイ

文字考 - 仮名と漢字
 

文法考・Meta-logicの視点から

コスプレ原論 人麻呂と芭蕉を読み解く

別巻「東斗の月」 中国芸術と老荘思想

第一回 芭蕉記念箱根俳句賞・西行記念箱根短歌賞 

歌枕 「箱根」・「筑波山」・「香取の海」

ナバホの諳歌

覚書 - 言語の二重性について

七日で覚える百人一首 ケータイ・PC兼用

日本絵巻第二巻 「ツキノヒカリ」月読と量子論

J-POPに見る一音マトリックス

芭蕉 

Nature Search Japan.

ナリスマシ言語

原風景を映すブラウザ
- ツキと月そしてMOON

ウツ(空)とウツツ(現)のラボラトリー

規範 が「物」や「言(こと)」を活かす。

日本物語あるいは日本といふ物語

日本的無について

哲学叢書ナチス文庫と浮世根問


情報バブル時代の自画像 二千二十五

Google cannot catch even one tortoise.

ART SEARCH JAPAN

祝詞に見る一音マトリックス 

真仮名マトリックス

番外 永遠なる尾瀬

哥座美学

哥座 Archives1

哥座表紙 Archives

哥座秘伝抄

哥座原稿

哥座(ウタクラ)本巻
 



 
(このサイト項目のすべては現代美術製作をすすめるにあたって、制作途上に思いついた個人的メモである。直感にもとづくアイデア定着を最優先に記述しているため、未整理、未検証であることをここに、お断りしておく。)




    あ・ら・な・く・に


 



             (2008.8) 

   真仮名マトリックス
      万葉仮名

 

 


 ア カ サ タ ナ ハ マ ヤ ラ ワ 
a   あ
    阿安英足余吾網、嗚呼
ka  か
   可何加架香蚊迦鹿日
sa  さ
   左佐沙作者柴紗草散
ta  た
    太多他丹駄田手立
na  な
   那男奈南寧難七名魚菜
fa  は
   八方芳房半伴倍泊波婆破薄播幡羽早者速葉歯
ma  ま
   万末馬麻摩磨満前真間鬼
ya  や
   也移夜楊耶野八矢屋
ra  ら
   良浪郎楽羅等
wa  わ
   和丸輪   

ガ ザ ダ バ
ga  が   奇宜蛾河俄餓我何賀
dza
    社射謝耶奢装蔵
da     陀太大嚢

ba  ば   伐婆磨魔

 

イ キ シ チ 二 ヒ ミ リ イ  
i 
     伊怡以異已移射五夷、馬声
ki
  き(甲) 支伎岐企棄寸吉杵來服刻
ki
  き(乙) 貴紀記奇寄忌幾木樹城
si
  
   子之芝水四司詞斯志思信偲寺侍時歌詩師紫新旨指次此死事准磯為
ti
     知智陳千乳血茅   
ni
     二人日仁爾迩尼耳柔丹荷似煮煎   
fi
     比必卑賓日氷飯負嬪臂避臂匱   
fi
  ひ(乙) 非悲斐火肥飛樋干乾彼被秘
mi
  み(甲) 民彌美三水見視御     
mi
  み(乙) 未味尾微身実箕
ri
      里理利梨隣入煎   
wi
     位為謂井猪藍

 

 ジ ヂ
gi    ぎ(甲)
 伎祇芸岐儀蟻
zi    じ
  自士仕司時尽慈耳餌児弐爾  
di    ぢ
  遅治地恥尼泥 婢鼻弥

 

 
gi  ぎ(乙)
 疑宜義擬
bi  び(乙)
 備肥飛乾眉媚   

 

ウ ク ス ツ ヌ フ ム ユ ル 
u
    宇羽于有卯烏得兎菟
ku
    久九口丘苦鳩来具倶供求救孔玖
su
    寸須周酒州洲珠数酢栖渚   
tu
    都豆通追川津  
nu
    奴努怒農濃沼宿  
fu
    不否布負部敷経歴   
mu
    牟武無模務謀六
yu
    由喩遊湯
ru
    留流類


 グ ズ ブ
gu  ぐ
   具遇隅求愚虞   
dzu ず
   受授殊儒
du  づ
   
豆頭弩    
bu  ぶ
   夫扶府文柔歩部

 

エ ケ セ テ ネ へ メ イェ レ エ
e   え
    衣依愛榎荏得
ke  け(甲) 祁家計係價結鶏
se  せ
   世西斉勢施背脊迫瀬
te  て
    直堤天帝底手代直
ne  ね
    禰尼泥年根宿
fe  へ(甲) 平反返弁弊陛遍覇部辺重隔
me  め(甲) 売馬面女
ye  いぇ   曳延要遥叡兄江吉枝
re  れ
   礼列例烈連
we  ゑ
   廻恵面咲

 

ゲ ゼ デ べ 
ge   げ(甲) 下牙雅夏
ze   ぜ   是湍
de   で   代田泥庭伝殿而涅提弟
be   べ   弁便別部

 

ケ へ メ 
ke   け(乙) 気既毛飼消
fe   へ(乙)  閉倍陪拝戸経
me   め(乙) 梅米迷昧目眼、海藻  

 

ギ べ
gi   ぎ(乙) 擬義気宜礙削
be   べ
   
倍毎

 

オ コ ソ ト ノ ホ モ ヲ ロ オ
o    お
   
意憶於應於飫億隠
ko   こ(甲) 古姑枯故侯孤児粉
so   そ(甲) 宗祖素蘇
to   と(甲)  刀土斗度戸利速
no   の(甲)  努怒野
fo   ほ   凡方抱朋倍保宝富百帆穂
mo   も    毛畝蒙木問聞母文茂門忘物裳喪藻
yo   よ(甲)  用容欲夜  
ro   ろ(甲)  路漏 
wo   を    乎呼遠鳥怨越少小尾麻男緒雄

ゴ ゾ ド ボ
go  ご(甲)  吾呉胡娯後籠児悟誤
dzo  ぞ(甲)  俗
do  ど(甲)  土度渡奴怒
bo   ぼ    煩菩番蕃

 

コ ソ ト ノ ホ モ ヨ ロ 
ko  こ(乙) 己巨去居忌許虚興木
so  そ(乙) 所則曾僧増憎衣背苑
to  と(乙)  止等登澄得騰十鳥常跡
no  の(乙) 乃能笑荷
mo  も   方面忘母文茂記勿物望門喪裳藻毛問
yo  よ(乙) 与余四世代吉
ro  ろ(乙)  呂侶

ゴゾド
go  ご(乙) 其期碁語御馭凝
dzo  ぞ(乙)  序叙賊存茹鋤
do  ど(乙)  特藤騰等耐抒杼





       


   古代言法・一音マトリックス (2008.8記述中)

   


       
「あ・い・う・え・お・ん」の並びと音の抑揚によって意味を顕す。

あ    希望
らァ   前だしの調子
なァ   勇み足。不安。不安定な一歩。
くゥ    詰まる。押し返される。
にィ    絞る。広がる。主張を通す。




a あ (吾)わたし、大きい、多い、太い、長い、高い、偉大な、新らしい、早い、存在
raら 中心にある、穀、物、米
riり する状態、・するもの
ruる する行為、・するもの
naな (汝)あなた  (大きく、偉大では、高く、存在し)ない
kwuくぅ 組み合わせる、入る
kwoくぉ 中心、基の、軸のある
くぉあ=kЭ音 逆の状態 (行為)、変る
kwiくぃ 元のものを裂く
niに 確かではない
nwiぬぃ 広くない、狭い
nyiにぃ 柔らかくない、固い、新らしい


身体語より  
〔み〕=「身」=満ち満ちた
〔は〕=「歯」「葉」「はは」「腹」「原」{灰」{肺}=よみがえる
〔お=あ=a〕「長い」
〔ら=ra〕「いっぱい」「真ん中」
〔ぬゎ=nwa〕「並ぶ」、  はな/まなこ
〔く=くぅ=kwu〕「入る」「入れる」   口/倉
〔く=くぅ=kwu〕「組み合わせる」 首
〔い〕=いのち「稲」


一般語より  
〔と〕=伝わる
〔のる〕=(神)がおっしゃる
〔はい〕=(いのちを甦らせる){灰」{肺}「ハイ」
〔か〕=(神)がおっしゃる
〔き〕=(気)(木)(君)(黄身)わたしたちを活かす偉大なもの
○  「も」
   「は」確定的な判断。対し、「も」は不確定な判断。
   「も」 - 不確定で、判断できない。 - 詠嘆。              
〔も=mo〕「本当に小さい」
〔い=いぃ=yi〕「やさしい、かわいい」〕「柔らかい」

 

 

 

      


    J-POPに見る一音マトリックス 参考一
        J-POP再生を遅くしてく! あるいはカラオケる!


        - 古代言法との比較

歌詞のフレーズごとに、実際の歌声が最大声量となる
アエイオウ母音を重ねてみる。しかも
J-POP再生を遅くしてみる!
ゆっくりと、いてみる。

英語だろうと、漢語だろうと、単語に意味を置かないで
語尾の アエイオウ母音の変化と強弱に注意をはらい聴いてみる。

最後に、
以下三点に気をつけ「ストロボ」をカラオケる!
○ 日本の歌の独自性は、歌詞を離れたメロディーがない点にある。
言葉に節がついたものが日本の歌の本来のスガタだ。
○ もともと日本語には単語というものは存在しない。
歌詞の意味は、漢字で表象される意味と違う。
○ 日本語の基層は、一音一音で意味をもち、「あいうえお」の
発音の変化によってすべてを表現している。 一音一音の発音変化を
正しくすることで心が伝わる。 

いつもと違うスゴイ感動が起これば、あなたは太古精神のDNAを
正等に継承した立派な日本列島原始人ということになる。


 

 ストロボ     広瀬香美

Nobody Can Stop Noァーw  始まったからァー
Anytime Anywhere  きィっと 二人はもォうォー
Fall in Winter Drea(ィー)m

ストロボ ひ(ィーかァあった 出会あった あァの夜 
テレちゃうくらァい  テレちゃうくらァい
心のメェモリィ いィっぱいにィなった 
あなただけでェー あなただけでェー
スネル素振り 私を急に振り返るまなざしィー
めぐりめぐる瞬間よ 憧れも 想いでも 大切な宝物
Romantic Mystic Love

愛しくて 夜空の星をみあげて あなたの声を聞かせて
つのる 想い 誰も とめられないィー 
逢いたくて 恋するスピード上げて まァっすぐあなたに届け
Anytime Anywhere  きィっと 二人はもォうォー
Fall in Winter Drea(ィー)m
 ………
 ………
J-POPヲ遅イ再生デ、聞イテミルト!
意味から離れることができた時、
そこには「祝詞のごときJ-POP
」が現れてくる。

現代のJ-POPも、伝統の祝詞も、単語に意味を置かないで
英語だろうと、サンスクリットだろうと、漢語だろうと、関係なく、
語尾の アエイオウ母音ノ変化ト強弱で
メッセージを伝えようと する傾向にある。
(この傾向は演歌でもあるが、演歌よりも単語としての意味が
より希薄化し、原始感覚に再帰しているのが、J-POPだ。)
これら日本の歌における単語の意味は
間を活かすための修飾機能しかもたされていないやうに見える。

さらなる、
古代言法と今の言法に働共通ルール解明は
今後の主題の一つだ。


      

 西欧と日本の歌の違い。
    一音マトリックスのマトメ 
参考二


第一点は、西欧はメロディーと歌が別々である。だからメロディーだけでも曲になる。
日本の歌は本来言葉に節がついたもの。言葉を離れた歌はない。
歌詞を離れたメロディーがない点が日本の歌の独自性である。
第二点は、その本来の歌詞の意味合いは、漢字で表象される意味と違って働いている。
日本語には本来単語というものは存在しない。
一音一音で意味をもち、しかも「あいうえお」の発音の変化によってすべてを表現する。
だから、「あいうえお」の一つ一つ。それからその発音の変化を正しくやらなければ、
本当のところは伝わらない。
 - 葉室 頼昭氏の著作より引用

 

      


     のりと(祝詞)に見る一音マトリックス


  祓詞(はらえのことば) 参考三 - 一

 

掛けまくも畏き  伊邪那岐大神(いざなぎのおほかみ)  筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはら)に  禊(みそ)ぎ祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸(なりませるはらへど)の大神等(おほかみたち)  諸々の禍事(まがごと)・罪・穢(けがれ) 有らむをば 祓へ給ひ清め給へと  白(まを)すことを聞こし召せと  恐(かしこみ)恐みも白す

 

  大祓詞(おおはらえのことば) 参考三 - 二


  高天原(たかまのはら)に神(かむ)留(づま)り坐(ま)す 皇親神漏岐(すめらがむつかむろぎ) 神漏美(かむろみ)の命以(みことも)ちて 八百萬神等(やほよろづのかみたち)を神集(かむつど)へに集(つど)へ賜(たま)ひ 神議(かむはか)りに議(はか)り賜(たま)ひて 我(あ)が皇御孫命(すめみまのみこと)は 豊葦原水穂國(とよあしはらのみづほのくに)を 安國(やすくに)と平(たひら)けく知(し)ろし食(め)せと 事依(ことよ)さし奉(まつ)りき 此(か)く依(よ)さし奉(まつ)りし國中(くぬち)に 荒(あら)振(ぶ)る神(かみ)等(たち)をば 神問(かむと)はしに問(と)はし賜(たま)ひ 神掃(かむはら)ひに掃(はら)ひ賜(たま)ひて 語問(ことと)ひし 磐(いわ)根(ね)樹根立(きねたち) 草(くさ)の片葉(かきは)をも語止(ことや)めて 天(あめ)の磐座放(いわくらはな)ち 天(あめ)の八重雲(やへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別(ちわ)きて 天降(あまくだ)し依(よ)さし奉(まつ)りき 此(か)く依(よ)さし奉(まつ)りし四方(よも)の國中(くになか)と 大倭日高見(おほやまとひだかみ)國(のくに)を安國(やすくに)と定(さだ)め奉(まつ)りて 下(した)つ磐(いは)根(ね)に宮柱太敷(みやばしらふとし)き立(た)て 高天原(たかまのはら)に千木高知(ちぎたかし)りて 皇御孫命(すめみまのみこと)の瑞(みづ)の御殿仕(みあらかつか)へ奉(まつ)りて 天(あめ)の 御(みか)蔭(かげ)日(ひ)の御蔭(みかげ)と隠(かく)り坐(ま)して 安國(やすくに)と平(たひら)けく知(し)ろし食(め)さむ國(くぬ)中(ち)に成(な)り出(い)でむ天(あめ)の益人等(ますひとら)が 過(あやま)ち犯(おか)しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は天(あま)つ 罪(つみ)國(くに)つ 罪(つみ)許許太久(ここだく)の罪出(つみい)でむ 此(か)く出(い)でば 天(あま )つ宮(みや)事(ごと)以(も)ちて 天(あま)つ金(かな)木(ぎ)を本打(もとう)ち切(き)り 末打(すえう)ち断(た)ちて 千座(ちくら)の置座(おきくら)に置(お)き足(た)らはして 天(あま)つ菅(すが)麻(そ)を本刈(もとか)り断(た)ち 末刈(すえか)り切(き)りて 八針(やはり)に取り辟きて 天(あま)つ祝(のり)詞(と)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ
此(か)く宣(の)らば 天(あま)つ神(かみ)は天(あめ)の磐門(いはと)を押(お)し披(ひら)きて 天(あめ)の八重雲(やへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別(ちわ)きて 聞(き)こし食(め)さむ 國(くに)つ神(かみ)は高山(たかやま)の末(すえ) 短(ひき)山(やま)の末(すえ)に上(のぼ)り坐(ま)して 高山(たかやま)の伊(い) 褒(ほ)理(り)短(ひき)山(やま)の伊褒理(いほり)を掻(か)き別(わ)けて聞(き)こし食(め)さむ 此(か)く聞(き)こし食(め)してば 罪(つみ)と言(い)ふ罪(つみ)は在(あ)らじと 科戸(しなど)の風(かぜ)の天(あめ)の八重雲(やへぐも)を吹(ふ)き放(はな)つ事(こと)の如(ごと)く 朝(あした)の 御(み)霧(ぎり)夕(ゆうべ)の御霧(みぎり)を 朝風夕風(あさかぜゆうかぜ)の吹(ふ)き拂(はら)ふ事(こと)の如(ごと)く 大津邊(おほつべ)に居(お)る大船(おほふね)を 舳解(へと)き放(はな)ち 艫解(ともと)き放(はな)ちて 大海原(おほうなばら)に押(お)し放(はな)つ事(こと)の如(ごと)く 彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を 焼鎌(やきがま)の敏(と)鎌(がま)以(も)ちて 打(う)ち掃(はら)ふ事(こと)の如(ごと)く遺(のこ)る罪(つみ)は在(あ)らじと 祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)ふ事(こと)を 高山(たかやま)の末(すえ) 短(ひき)山(やま)の末(すえ)より 佐久那太理(さくなだり)に落(お)ち多岐(たぎ)つ 早川(はやかわ)の瀬(せ)に坐(ま)す瀬織津比賣(せおりつひめ)と言(い)ふ 神(かみ)大(おほ)海(うな)原(ばら)に持(も)ち出(い)でなむ 此(か)く持(も)ち出(い)で往(い)なば 荒潮(あらしほ)の潮(しほ)の八百道(やほぢ)の八潮道(やしほぢ)の潮(しほ)の八百曾(やほあひ)に坐(ま)す速開都比賣(はやあきつひめ)と言(い)ふ 神(かみ)持(も)ち加加呑(かかの)みてむ 此(か)く加加呑(かかの)みてば 気吹戸(いぶきど)に坐(ま)す気吹戸主(いぶきどぬし)と言(い)ふ 神(かみ)根(ねの)國(くに)底(そこの)國(くに)に気吹放(いぶきはな)ちてむ 此(か)く気吹放(いぶきはな)ちてば 根(ねの)國(くに) 底(そこの)國(くに)に坐(ま)す速佐須良比賣(はやさすらひめ)と言(い)ふ神(かみ) 持(も)ち佐(さ)須(す)良(ら)ひ失(うしな)ひてむ 此(か)く佐(さ)須(す)良(ら)ひ失(うしな)ひてば 罪(つみ)と言(い)ふ罪(つみ)は在(あ)らじと 祓(はら)へ給(たま)ひ清(きよ)め給(たま)ふ事(こと)を 天(あま)つ神(かみ) 國(くに)つ神(かみ) 八百萬(やほよろずの)神等共(かみたちとも)に 聞(き)こし食(め)せと白(まを)す
                   神社本廳藏版 より

      


 芭蕉にあじわう一音マトリックス

  猿蓑集  
  300 299 298 297 296 295 294 293 292 291
  290 289 288 287 286 285 284 283 282 281

  続猿蓑集 
  280 279 278 277 276 275 274 273 272 271       
  270 269 267 265 264 263 262 261

  野ざらし紀行
  260 258 257 256 255 254 253 252 251

  他 
  002 004

          






         「ナバホの諳歌」


   


  うたいながら、孫へ機織を教えている老婆がいる。
  「機織のできる一人前のおんなになるには、
  まず、このうたをぜんぶ諳んじなくちゃいけないよ」と、
  機織の手を休めることなく、隣の孫に言い聞かせている…。

  ナバホの村の記録フイルムだ。
  ここで、文化人類学的なナレーションが入る。
  伝統の継承とか、労働歌とか、環境用語やうまくできた
  機能的な説明だ。視聴者ももちろんわたしも納得する。
  - 果たして……。


  わたしたちのこの了解の順序はABEKOBEだ。
  はじめに諳歌といふロゴスありき -
  (メフィストフェレスの囁きは無視して)
  ここでは、諳歌があってこそ織り込まれてくる具象世界がある。
  そこに初めて、老婆と孫の関係(存在)が開示され、
  コヨーテと月(の本質)の存在が可能となる。……というのに。

  そして、わたしたちこそ、撮影クルーともども、
  一本の糸として、その世界の一枚へと 織り込まれつつ、
  こうして(離れた場所で)観させられている。……というのに。

  いつの頃からか、戦後か、明治以降か、元禄からか、
  飛鳥か、弥生頃からか、わたしたちは、いつのまにか
  ジブン自身が具体と関わっていた視点を廃棄し、代りに
  存在しない抽象点から、世界を見るようになってきている。
  その事態をもうすこし詳しくいうと、権力が集中していく
  ところ、「国家といふ物語」が 要請されてくるのは、
  ある意味、歴史の必然だろう。また、もうひとつの必然として、
  その演繹形態である「私といふ物語」も結果されてくる。
  これは、国家である限り、どんな国家であろうと
  - 封建国家とか、民主主義とか共産主義国家とか
  その国家形態、イデオロギーには関係がない。
  権力組織対個の一般力学である。
  (実は、国家と個の関係を詰めて考えていくと、
  この二つの顔はある同じあるものの両面であるという
  あまりなじみのない結論へと行き着いてしまう。
  がここで詳細は割愛し、個の視点の成立過程のみ考察していかう。)
  国家は、国家の二大管理ツールである「教育」と
  時代の「メディア」を総動員し、 個を「国家という物語」へ
  組み込んでくる。その際、効率よく国家を機能させるためにも、
  国家と個の関係式が必要になってくる。自由、平等、自然、環境、
  人権など、全ての社会、自然分野にわたり、個が規範にそって
  モノコトを見て行動をしていくプログラムだ。
  例えば、その一つが法律という強制プログラムである。
  そこでヒトへ付与された記号は、人権という概念のように、
  具体的には幅も長さもない抽象点でしかない。かくして、国家の
  方程式のもとで、個は、全体のために操作演算されることになる。
               - 詳細は後述。

  近年、その関係式は、 西欧科学という一見普遍的で客観
  妥当するよう錯覚してしまいがちの「もうひとつの物語」
  によって、さらに抽象化され、絶対化されてきた。
  通貨の流通と 同様の手順で、ヒトという価値の流通神話が
  つくりだされて、そこへ
  わたくしたちは、わずかの栄光や、金銭とひきかえに、
  日本といふ物語の取替え可能なエキストラとして出演してきた。

  しかし、それは光を失った死者の眼でモノコトを見、
  また、 同様の死んだ眼たちに見つめられつつ、そこで得た賞賛は、
  虚しく自分といふ物語を演じているゾンビの栄光にすぎないだろう。
  こうした歴史の積み重ねのなかで、
  わたくしたちは、ほんとうの具体を観る本能といったものを
  どこかへ忘れてきてしまったようだ。
  国際金融資本にみられるように、
  現代のインフォメーションテクノロジーの進化で、
  権力の集中はより加速化、それに反比例した
  グローバル化の波はとどまる事を知らない。「日本物語」に代る
  「ワンワールド物語」の始まりだ。その世界物語演出の
  ため動員されたわたくしたちエキストラに与えられている
  視点は、抽象度を増し、幾何学上の点に移し変えられ、もはや、
  生きた人間として、各独自にモノコトに感動する視点ではない。
  人工的に割り当てられた記号としてのアンドロイドの視点だ。
  操作しやすい仮の点、数次元座標の数式にくみこまれた一点が
  あなたと同機してしまったらもはや、独自の具体的な視点から、
  具体世界を観ていくことはできなくなる。

  たぶん何ヶ月か前に撮影されただろうナバホの村での機織り。
  そして、今、その記録をメディアを通して見ている東京のジブン。
  この両者は、あきらかに時空を隔てなんらの必然性も、関連性も
  ないのが当然だとおもい、
  アーカイブデータとしてしか見えないわたくしたち。
  ところが実相は、メディアを通して見ているわたしたちの
  いまの視点さえもあのアイ色の一本の糸として、
  老婆の機織る一枚の布へと織り込まれつつ、
  はじめて、現存在として両者の関係性-縁-が成立しており、
  具足世界への可視的現成が可能となっている。といふのに…。
  全ての現象はデータ化できると思い込み、科学といふもうひとつの
  物語でしかない 直線座標、時の権力ツールである時空座標へ
  還元してしまい何もない視点に身を置いて
  「アッチ向いてホイ」「コッチ向いてホイ」の
  「ホイホイ菌」の蔓延により、
  感染力の強いこの細菌に海馬のシナプス回路まで侵されてしまい、
  結果、 可塑性に障害をかかえたまま、
  一方向でのみ世界をみて、自由と取り違えしてしまふわたくしたち。
  このわたくしたちには、ありのままの世界の現成を、
  ありのままにうけとめることなど、もはや出来なくなっている。
  (例外もある。時空の秘密にもとづいた智慧をはたらかせ、
  社会システム維持のために、権力の集中をタブーとして
  いた縄文中期までの社会。
  あるいは、権力の集中を嫌ったインディオの人々の社会だ。
  この思想は土器の設計思想によく現れている。- 詳細は後述。)


       「覚書」


淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば 
   心もしのにいにしへ思ほゆ
           柿本人麿

 

 「この一首さえあれば、日本はもう沈んで無くなっても良いじゃないか」といったのは、たしか新感覚派の横光利一だったか。

 自分たちのことば、詩的言語、古言は、分析的な美学では掬いきれない時間とか、身体の深い底からの感動をわたしたちへ与えてくれることに驚く。もともと、わたしたちのことばに内在するロゴスを離れては、深い感動はおろか、他国の文化や、自国文化の理解にいたるまで困難になるのはあきらかだ。中印の古典哲学、ヘーゲル美学やカントの批判美学、ハイデッガーなどドイツロマン派の美学の流れ、あるいはギリシャクラシックの美へのまなざしも大切だが、先づ、我々の先人のものにした古典や、いま普段につかっている生の言葉に聴き入り、ことばを深めて、そこから、わたしたちの具体的な身体・言語ルールに基づいた自然な美の学を、科学を哲学を立ち上げることがものごとの順序というものだろう。結果、そのことのみが多様な言語文化のなか、互いに相対化されれば、どんな世界もローカル文化のひとつにすぎなくなるとはいへ、等身大かつ、独自の立場の自覚を生み出して、より深いレベルから他言語文化圏との相互理解を可能ならしめると信ずる。所詮グローバルな世界標準美学のようなものは、面積を持たない点のごとく、具体的な身体性が欠如しており、そこは、誰もすむことのできない虚構の抽象世界でしかないはずだ。

 哥座(うたくら)は、「にほひ」・「俤」など印欧中にない、固有の先験的韻文空間を探険し、古くて、新しい独自の構造原理による美のプラットフォーム=座の確立を目指す。「井の哲」以来、いまも笑いのとれない「浮世根問」でありつづける講釈美学。そして独自といわれながら、その実、西欧哲学を前鏡とし、うしろに中印思想・宗教の鏡を置いて、その合わせ鏡の間へ座り直して見える無限虚像を、絶対とみたてた「絶対矛盾的自己同一」など新公案や題目の域をでることができないでいた京都学派哲学・美学。さらにその後のやはり欧米の論理を前鏡としているにすぎない進歩的陣営からの批判論理。もともと抽象概念による欧米学問用語というものは生活用語中心の日本の固有語では言い表しにくい。だから、中国語から借用した漢字、漢語で造語しなければならなかっただろう。とはいえ、肝心の真実を追い求める固有の視座をなくしたのでは全く意味をなさない。そこには、自分たちの視座を失わない一工夫が必要であったはずなのだ。やがて、これら抽象観念は空洞化し、そこに妄想を生み、無惨な結末を迎えることになったのである。それは歴史の教えるところだ。哥座は、こうした一切から遠く離れ、身辺の具体的な日常宇宙のなかに等身大の美の原風景を訪ねたい。

     歌座 美学研究所




  言語。 その二重性について



わたしたちの内なる言語。 その二重性について「フルコトとしての第一言語」と
「ナリスマシとしての第二言語」。 その緩衝帯、縁側には中間言語が発生する。


○ 「フルコトとしての第一言語」は 無文字文化に根をもつ身体語や地名、古言、 主要な動詞、助動詞、助詞、形容詞等々。 それに現代日本語のフツウに文法といわれるほとんど全てのことばの機能にあたる。とくに和歌・俳諧、いまの俳句は、 「フルコトとしての第一言語」でなっている。

○  「ナリスマシとしての第二言語」とは、 文字導入後の漢意に相当する概念や考え方。また、哲学・芸術という明治以降の学問の新概念や主観、客観といういまや常識的になっている見方、 弁証法や分析、総合、演繹、帰納という論理。現代の、ポイエーシスとかクオリアという概念など。 それらにもとづくすべての発想をいう。
 ナナフシのように、外部の敵から身を守ろうと、ジブンでない存在へ擬態(ナリスマシ)する。そして、その ジブンでない他種のシステム言語に寄宿して、その視点からものごとを見ていこうとする言語。

  ナリスマシ言語・擬態語*)は敗戦の度、外来文化受容装置として新国家建設の名目の許で氾濫してきた。一回目の白村江の戦いにおける敗戦。二回目の明治開国(列強外圧による敗戦)。三度目の前回の敗戦。今また、高度情報技術を媒介にした医学、経済等の各専門分野の戦いにおいて。

*)言語学でいう擬態語と用法が違う。
*)どの言語文化圏においてもは文化的、政治的要因によって語彙の借用は起こってきた。ここでは、借りてきた異なるシステムから生じた視座が、どのように固有の視座と混在し、どのような混乱をきたして、どんな結果をうみだしているのか、そんな現在にいたるまでの状況をあらためて美術制作の作業現場から問題にしたい。この問題、とくに視座の問題を整理することで、美術においても、くらしにおいても、何かが見えてくるはずだ。


 「哥座(うたくら)」は、いったん文化装置の全てに強制終了をかけ、
次に、無文字文化の視点を再起動!。その地平から、日本美の謎の構造解明に挑む。

 ここで開かれた美の原風景の地平からの展望は、日本芸術史上至高の傑作、等伯の「松林図屏風」の秘密を。そして芭蕉の「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」の句に隠された秘密を。その字余り「で」というたった一字の切れ字がわたしたちの未来へ残したところの重大なメッセージを解明してくれるはづだ。

 


○ 両言語とも、日本語だが、それぞれの視座は、百八十度正反対に位置する。


○ なお、第一言語と第二言の中間には、母屋と外世界との境界に設けられた縁側として機能する中間領域言語が存在する。心性の核は母屋にありながら、縁側にでて、外来文化を受容していく際のことばである。ここではその言語に付帯する視座も含めて、仮に「縁側言語」と呼んでおく。

 ナリスマシ言語が母国の言語に包摂されていく過程で生じる言語だ。実際には、この縁側言語と、その視座が、有史以来のわたくしたちのコトバとモノとコトを現実的に規定してきた。その結果、一般的に、わが国で伝統芸術・芸能といわれるもののほとんどがその「縁側言語」に拠って成立している。和歌から水墨画や枯山水。茶の湯。生け花。能。西洋画や音楽。現代舞踏にいたるまで。これら世界に誇る芸術・芸能も、しかし、それはほとんどが、外の言語システムを借用して和式化したものであり、根本に、オリジナルシステムでない弱さをもっている。そのへんが、往々にして、床の間芸術。洋間芸術。(ここでは縁側芸術)。に堕してしまいやすい第一の原因であろうかとジブンは推測している。では、外部に影響されないオリジナルなシステムと、それにもとづく視座などあるのか、外来文化に依存するここでいう第二言語を除外してしまったら文化の体裁をなしたものなど、なにも無くなってしまうではないか。そう思われるところだが、実はしっかりと第一言語にもとづいた母屋の芸術は過去にもあったし、現実にも存在しているし、また、未来にも可能なのである。その辺は、視座を整理すれば、見えてくる。その前に、わたくしたちの言語システムの法則や特徴を西欧の言語学を引用せず、中国の道家思想に頼らず、なんらかのジブンたちジシンの方法で、即、美の法則として抽出しなければならない。

 


古言(ふること)に根をもつ第一言語の視座


 その視座は、主客を止揚したところの全体存在から生み出されてくる。そこにジブンの視点はあっても、それは一度全体に掬い取られてしまった視点である。「はじめに古言(ふること) ありき」である。古言(ふること)はメディア・媒介項として、その本質である空(ウツ)へと、各々のモノ・コトやアナタ・ワレを組み込んでいく。同時に、当該の古言(ふること)を縁起とした出来事として、時間や空間をうみだしながら全体存在が現(ウツツ)世界として開き直してくる。この仕組みで時々刻々生成されていく共時性を伴った世界の視点。それが第一言語の視座である。

 ・・・と、しかし、ココからが俄然面白くなってくる。そして、ここでは一度ジブンでいっておいた論理まで全否定してしまうことになる。実は無文字時代の言語、古コトという第一言語の視座とは、正確にいうと「主客を止揚したもの」ではない。主客とは無関係に発生してくるものである。それ自体で、全体存在が現(ウツツ)世界として開き直してくるという「事」世界に属する事態である。(主客はで括れない視座であり、そこへわたくしたちは与するしかない。)不可思議としか言いようのない或る物なのである。

  翻って、ここでいう主観・客観とは、認識OS機能と一組をなして認識システムを構成している基本項目を指す。その場合の主客とは、措定されものであり、もともと仮想の存在にすぎない。いってみれば両概念とも観念の所産である。すると、このような認識OSのもとでは、主客連合の観念システムに浮かびあがった世界しか拾い出せないことになるのであり、実験により実証された理論やそれに導かれた客観世界といっても、それは認識OSの発動により始めて確認されるのであって、その限りで、そこで万人に確認された客体でさえ、それは依然、抽象化された観念内にとどまったままなのである。その意味で、認識OSが欧米系自然言語であろうと、自然科学の精華である現代物理学のOSであろうと、「わたくしたちがナリスマス第二言語」であろうと、そこで客観といわれるものは、古言(ふること)のあるがままの世界、抽象化未然の「事」そのものの世界から見れば、常識に反するものいいではあるが、ありとしあらゆるものを精確とは程遠い偏った観念的な代物であると断ずることさえ可能となる。

  ちなみに、認識OSが発動し、世界が抽象化された瞬間に、目の前に呼吸しているワレやアナタや共時的なかずかずの存在物は一度なみされ、記号化され、関係項に置換されてしまう。そこで存在の直接性は蒸発、消失する。かくしてそこにいるはずの直接的なワレやアナタをいないものとして頭のなかで記号を置き換え、構成して創り出された世界とは、抽象化された「死の思想」ともいうべきものである。この、「死の思想」の生み出した視点が欧米言語圏や自然科学の視座である。これを医学分野で仮想してみるとよい。あなたという全体存在は、医学的に設定されたOSの条件のもと、他から切り離された現代先端医療科学の観察対象であり、病のレベルはともかくも、患部をもった肉体の所有者として、ただの記号存在に還元されたデータである。それは、不断なるあなたというでき事として成ってきた全体存在の死を意味している。もはやあなたは、あなたではないアナタでしかないのだ。

  しかして、古言(ふること)に根をもつ第一言語の視座はそれと対極に位置している。認識OSを発動せず、物事を抽象化せず、概念化せず、意味を求めず、価値思考をせず、それ故に生きとし生けるものなべてを、小石や波や風にいたるまでありのままに受け止め得、その迦微なるこゑに聴き入ることができる。そこに生まれる視座は、それ自体が全体としての「事」世界に芽生え来る「あや奇(くす)し」としかいえない不可思議なる或る物なのである。

 

○ 両言語とも、日本語だが、それぞれの視座は、百八十度正反対に位置する。
  お月さまに登場してもらい
  分かり憎く?言い換えてみる。


世界受容の装置として、古言(ふること)は 原風景を映し出すブラウザである。
  - 「ツキ」と「月」そして「MOON]

 

たとえば、古言(ふること)に根をもつことばとして、「月」をとりあげてみる。
普段からナニゲに話している「ツ・キ」 ということばは、漢字の「月」と同一だという前提で使わている。が、ほんとうのところ「ツ・キ」 と「月」の指す意味内容、またその機能や用法は一致していないのではないだろうか。表現というキーワードに照らしてみると、両者は同一でないどころか、ことばの視座をめぐっては、正反対に位置していそうだ。

  漢字の「月」とは、その背景に権力の集中によって生みだされ、詩経時代あたりに完成をみた、中国独自の文脈のなかの一音節の[YE]を具象表現した「月」である。漢字は、モノやイメージが形象化されただけのものではない。依代として、また、時の権力の絶対化を保障するツールとして、現神が宿るまでに昇華されており、そこには気がこめられ全ての字が神意に発する視座をもっている。わたしたちは、その「月」の字を輸入して「ツ・キ」 の当て字としてきた。

  ところで、微細な感覚なので見逃しやすいが、「月」という漢字をつかって、歌を詠む。句作する。そうした場合に、「ツ・キ」と読み上げられたこゑの月と、表現された漢字の「月」という文字とのあいだに、(歌会や句会で、読み上げられた「ツ・キ」 と、選の用紙に描かれた月という文字と較べると分かりやすくなる)なにかわけの分からないズレ、断層がおきてしまい、そこに眩暈に似た気分が生じることがある。通常は、次の瞬間に、たちまち失せてしまう感覚ではある。 しかし、これは、一文脈のなかにもともと由来の違う言語システム、その違いによる異なる二つの視座が単純なわたくしのあたまのなかに同居した結果からくる臨床例ではなかろうか。もしかしたら、ビジュアルの「月」という漢字と耳に聞く「ツ・キ」とでは大脳の処理系列に違いがあるせいかもしれないが・・・。詳しいことはわからない。

  実は、わたくしたち無文字時代に根をもつことば 「ツ・キ」は、表現描写をタブーとする文化背景をもったところの「ツ・キ」である。わたくしたちの基層文化は一万年近くにもわたってイメージの表象や描写をきらい、概念の発生をタブーとしてきた。このタブーには、描写に宿るワルサの働きを抑えて共同体内部やこころの混乱を回避(アイヌでは現在でもそうである)したり、権力の集中を避けて、内と外との共生を図るろうとする深くきびしい智慧がはたらいていると思われる。この表現描写をタブーとして無文字文化を支えてきた装置のひとつには、延々とあの土器に仕組まれてきた縄眼の文様がある。(そこにワルサが降りてくると信じたイメージ表現を禁止し、さらに悪霊を寄せ付けないように施されたのが縄目文様である。この縄目という装置は、現代にいたるまで、その機能を変えずに、祭事ツールとして変様・伝承されてきている。)もうひとつの装置が、ここでいう、いまだに現代のことばとしてわたくしたちの暮らしの母屋を形成している古言(ふること)という装置である。- ここでいう古言(ふること)は、漢語・外来語に対して元々日本で使われてきた固有語の「やまとことば」 の意で使用している。

  言語を集約し、観念を形象化し、現神にひとしい依代として、あらゆる中国文化の要の位置をしめてきた漢字という文字表記文化。一方、イメージを排斥・無化することによって却って世界をありのままに受容し、あらゆるものと共生しようとする装置としての古言(ふること)。この両言語は、いま漢字という表記文字を共通としながら「ツ・キ」 ということばひとつとっても、その指し示す意義内容と働き方が決定的に違っている。もっとも共通文字だからといって、ことなる文化圏で当該概念の用法や関係性がちがっているのは当然である。が、ここでは日本という同一言語圏内における現象に限っても、日本語として定着した漢字と、「ツ・キ」 というふることでは視座が違ったものになってしまうということ。またそのことによるズレの感覚と意味を問題として提示している。

  いまもなを古言(ふること)を母屋として暮らすわたくしたちは、ホン根のところは表現を潔しとしない無文字時代文化に活きているのである。
  (では、描写表現をしない美とは可能なのか、そうだとすれば、どんなものなのか。そこは、ジブンの美術の核心なので別の機会に詳細する。)
 また、「ツ・キ」 はギリシャローマン語系のようなシステム言語を背景にした関係項としての「MOON]ではない。まして自然科学の対象たる即物的あるいはE=MC2に還元される「MOON]でもない。


 「ツ・キ」が指示する内容


  そうはいっても、「ツ・キ」と云うと、 ダイレクトに月そのものを指示しているようにおもわれる。当然である。が、古言に働く法則を探りながら美術的なモノ・コトの実作を重ねて来た個人的臨床体験から、この常識に異議を申し立てたい。そして、直感で断言したい。 「ツ・キ」は、中国の「月」や欧米語の「MOON]のようには、月そのものをダイレクトにその内容としていないと。重複になるが、この説明し難い事態へは「視座」というベクトルを導入し、この際、もうすこし先まで見ていきたい。その前に、もういちど視座の話をくりかえす。

 ここでいうところの視座にはおおきく分けて二種類ある。ひとつは、自然科学に代表される視座として、観察する主体が拠っている無人称のいわゆる客観的な視点である。さらに、もうひとつの視座は主観を越え、対象世界と一体となって生まれるといわれている全体的視座である。主に東洋世界の芸術?界や武術、芸能分野では古来から現在にいたるまで、この視点の重要性が強調され続けてきている。この視座はまた、中国文化の視座と、日本文化の視座とではおおきく違っている。はじめに、漢字に象徴される中国文化の視座とは、そこにタオイズムや陰陽思想にもとづき、秩序ただしく気韻生動が働くところの個別と全体がシステマティックに関係づけられた視座である。日本文化の視座とは、観る主体をワレから全体世界へと譲ったとき、その空っぽの場に宿るものは、きわめて個別的、場当たり的であり、その反面、権威との関係性づけが薄いところからくる即位即妙に自在にはたらきイマ・ココニ在る全体としての世界をありのまま照らし出し、あるいは顕かにする視座である。そこで話を戻す。


先ず、光速度直感をコマ送り再生してみる。


  「ツ・キ」 という古言(ふること)に根をもつことばは、辺りを祓って、そこにある種の共時的ブラックボックスの場を創りだす。同時に 「ツ・キ」を縁起として、その空(ウツ)というナニモナイ場へ、流れる雲や、湖面のさざなみ、暗い森、あるいは懐かしいひとの面影、そして見上げるジブンの想いとを共時的に呼び込み出会わせる。そこで はじめてブラックボックスの場に全体的視座が生起し、全体が融合したところの縁起世界が響き合ひ現れ、晴れて「月」がかがやき現れて、最後にワレが月を認めることとなる。 月は対象存在の月でないところの月として・・・。表象された漢字のイメージに対応した「月」ではないものとして・・・。それ自体が威力をもった存在ではないものとして・・・。リアルタイムな一期一会の場の取り持ち役、機縁として・・・。共生世界に席をゆづる場としての存在として・・・。瞬間瞬間、なにもないカラっぽの空(ウツ)として、同時に他を輝き映しだして有る、現(ウツツ)として・・・。

  「ツ・キ」 と同様に、古言(ふること)に根をもつあらゆることばには、単独のことば各々において、空(ウツ)の無化、と現(ウツツ)の顕現が働いている。このような古言(ふること)の一音一語は、表象された「月」や、関係性のなかで表現ツールの役割を果たすシステム言語のなかの一語とはまるで異なった機能をもった存在である。みづからは、カラっぽとして、その場その時にリアルタイムに自然やさまざまなモノ・コト・想ひ・またジブンとが在るがままに出会ひ、共生し、交響できる場として。その時、ことばは共生世界を映し出すウェアラブルな立体ブラウザとして機能している。 ・・・・・・続く

 (ついでに、「ぼくテキ」とか、「わたくしテキ」と主体を暈かす現代語について。この用法に対しては、責任の所在を明確にすることを避けて、あいまいさを好む国民性だからという解釈がされることが多い。しかし、それは情緒的すぎる説明だ。この傾向にも、日本語独自の法の働き(空(ウツ)の無化、と現(ウツツ)の顕現)が関与していると想像する。この法の原理は、ぼくや私という表明された概念の主体を無化し、空っぽの場として、世界を受容するメディア装置に変換してしまう。そこでその辺りの事情を鋭敏に、無意識裡に自覚し得た人々が、ダイレクトでない主体としての「テキ」という、ことば遣いをはじめたのではないだろうかと、わたし的には推測している。)

 

     マトメる


漢語漢字にみる「月」
「月」は[YE]であるところの月である。また「月」は「月」の音と意である。

日本漢字にみる「月」
「月」は「ツ・キ」のあて字である。

こゑにだす「ツ・キ」
「ツ・キ」は、月でないところの月である。 (空)ウツとして、月的に世界を映しだす。

 

この「ツ・キ」をほかの大和言葉におきかえてみてもいい。あるいはいまのことばの「ジブン」「ワタシ」でもいい。なお、古事記の「天地初発之時・‥」の「アメツチ」にするともっと分かりやすい。「アメツチ」を「天地」と表記した瞬間に視座は、他の文化圏の概念下の視座となり、ほんとうのジブンたちの具体的な姿というものは見えてこなくなる。以下でいうところのナリスマシの視座である。そこでみえているものは、ある種の思い込み、観念の結果であり、湖面にうつったジブン自身の姿を抽象的に再構成して、もはや本来のことばのチカラを失った影のような存在にすぎない。
    -2009年4月12日明方の直感にもとづく覚書より- 有

 

  チョイMemo - 1
ばかばかしいけど、この「ツ・キ」をほかの言葉、ダイレクトにモノそのものを指示していそうな 「ナ・ベ」「カ・マ・ド」に置き換えてみる。言語と対応する事物との関係を欧米言語学でみれば、そこになんの疑問もなく、「カ・マ・ド」」は、リアルの竈に対応する言語であり、それだけのことである。ここでいうわけの分からない事態は問題外である。しかし、わたくしは、この古言(ふること)に根をもつ「ナ・ベ」「カ・マ・ド」にさえ、さきほどの「ツ・キ」と同様に、空(ウツ)というナニモナイ場へ、さまざまな想いを共時的に呼び込み出会わせる働きが介入し、全体的視座が生起し、現(ウツツ)として存在してある・・という不思議な言葉とモノとの連関プロセグラムが働いているとおもう。
ちなみに、「竈のかみさま」があるように、日本人にとって、すべてのモノは、用具以上のカミであるのも、そんな事態からきているかとおもわれる。

 

 チョイMemo - 2
ずいぶん前のころ、手元にある風邪薬の分量を間違えたことがあった。しかもジブンはアレルギーなのに、ピリン系の薬である。とたんに、蒼白になり、救急病院のお世話になったのだが、その時おもしろい体験ができた。たぶん中枢神経が一時的にやられたせいだろう。ジブンの判断力とか、ことばとか、痛感覚とかは、非常に気分がわるいだけで、正常にはたらいている。動きもできる。ただし、四肢との一体感、統一感だけがなくなり、ジブンのもののはずの手、腕、足、がてんでバラバラにかたわらの無重力空間に浮いた状態に陥った。そこで、発見できたのは普段まったく無意識だが、指、手、腕、脚、すべての器官が存在し、運動可能である為には、なんらかの心身統一機関が関与しているということだ。いま、ことばのことを問題にしていて、この私事を思い出したのだが、つまり、日本の古言(ふること)に根をもつことばの一語一語には、身体の統一機関、中枢神経のような役割を果たす先験的な機関、しくみといったものがまえもって存在しており、そのしくみが全体的視座を生み出しているのではないかということである。そこで初めて、あるいは結果的に各言葉が各モノを目に見えて指し示し、機能し得るようにさせるなにか・・・が。


ナリスマシとしての第二言語の視座


それに較べ、他種のシステム言語に寄生して、隠蔽擬態する第二言語の視座とは、ナリスマシの視点という他はない。

  ついでに、寄生された側のオリジナルな言語体系について言及すれば、その拠って立つプラットフォームが欧米系言語であれば、高度に抽象化されシステム化された言語として、その各々の用語は指示された内容であるモノ・コトに応じた符号、ないし記号の意味を持ち、使用主体の目的にしたがって、システム全体のなかで位置づけられ、関係づけられる。こうして結果された世界は、わたくしたちの古言(ふること)の一音一語が開く在るがままの世界とは、存在の相もまた従ってその視座も、まったく違ってくる。その差異は優劣で比較し得る種類の問題ではない。
 
○  したがって両言語の使用法は全くことなる。
 第一言語は全身を通過したことば=韻文のなかや、普段においても本音として母屋でかたられる。第二言語は計算的、便法的な概念として鏡にうつった虚像を自己とし、虚に視座を設定し、そこから内と外を眺める。便法的な概念としておもに外向きに記号化され、取引される。

 その結果、便法は便法の役割を終えたとき、すぐに本音に包括されて、無化されるか次の第二言語概念に取って代わられる。

○ 有史以来、両言語共存というこの二重性が、個人から国家システムまで、そして現代の芸術・哲学までをも共通に支配し続けている。大宝律令や昭和憲法の無限拡大解釈など、国家社会の意思決定メカニズムの不思議な混乱は、この両言語共存というわたくしたちの二重性にこそその原因が求められなくてはならない。

○ 第一言語の構造原理から第二言語が生み出されている。

○ ことばの構造原理はすなわちモノとコトの美の構造原理でもある。


* これらのメモは、美術制作の作業途上でうまれた直感をもとにした自身のための覚書である。モノとコトバとバトルしながら直感を走らせているので、殴り書きにちかい。機会をまって整理する。

 


  規範が「物」や「言(こと)」を活かす。


          

 ■ 構造化 ■
○モノに構造を持たせるとは、母語の「言(こと)」のはたらきをモノへと適用することである。つまり[もの][こと]の法身化と同義である。
○これらへ独自の文脈法の構造を与えると、[モノ]は、 もはや対象存在を止め、透明化して、世界と同化する。つまり「事」に成る。
○これは、歌、俳諧。 茶の湯、そして能楽の視座の獲得法と同様である。欧米の造型概念による構成とは、全くことなる。 
○身体でかかわりながら、「物」へとそれにふさわしい規範を与えたとき、第一言語の視座への転換が生じる。つまり全体存在の視点が生まれる。そのとき、ものは対象存在を止める。たとえば大地へはるかの先まで、朝露にしとどに濡れた白ゆうを這わせる。あるいは大岩の節目にそいつつ岩を縄で縛り上げていく。 物理学でいうところの「思考実験」に似た作業だが、こうしたフィールドワークを長年積み重ねてきた経験的事実である。


                
            
 ■ 具足化 ■
 ・ モノが法身化すれば、
   モノは世界と同化する。
 
 ■ ロゴス・法・ダルマ ■
 ・ 一体化を果たさないと
   世界は開示しない ・
 ・ 世界との同化の法則 ・

                


一、内なる第一言語の法則
二、内なる第二言語の法則

 

 ■ 「情緒」について  ■

    
  第一言語感覚におけるいわゆる情緒といわれるものについて、余韻、引きずり、など、対象存在をなくしてしまった場合の世界の重なり具合。その全体性における関係をいふ。
  (にほひ ・ ひびき ・ おもかげ)
  夢のうちの夢という 「夢の入れ子」構造をセルの基本とする。ミクロまで構造化、固有のモナドとする


           


二、第一言語の定義づけ。


               

■ ウ ツ ■ 
■ ウツツ ■ 
■ ア ル ■
■ ナ シ ■
■ 〜 ず ■
■ あらなくに ■
               
■ おおき ■  
■ ちさき ■

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「第一言語空間に固有の関係項」洗出し。そこに身体を関与させた場合と関与のない場合。


 ■ おもて うら ■
 ■ うしろ まえ ■
 ■ あと さき ■
 ■ アル ナシ ■
 ■ うえ した ■
 ■ みぎ ひだり ■
 ■ かむ のむ ■
 ■ みんな はんぶん ■
 ■ はじめ おはり ■
               
第一言語の 基本動作
 ■ うがつ ■   
 ■ けづる ■
 ■ わ る ■
 ■ す る ■
 ■ う つ ■
 ■ う む ■
 ■ なげる ■
 ■ ありく ■
 ■ はしる ■
 ■ たたく ■
 ■ ねまる ■

第一言語の身体語
 ■ ほほ ■ 
 ■ ほね ■
 ■ ほぞ ■
 ■ ほと ■
 ■ め・は・せ・け・て■
 ■ みみ・ちち・もも・ほほ ■
 ■ あ・たま あ・し あ・ぎと■
 ■ すね  ほね  むね■
 ■ くち   くび ■
 ■ つめ   ゆび ■
 ■ のど   ほと ■
 ■ まゆ   はな ■



明けは陀羅尼、夕は経


■ 宇治平等院曲水庭園  ■
 ■ 奈良平城京の庭園遺跡 ■
 ■ 銀閣裏山斜面の組石 ■


 
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       万葉仮名

-


「漢字」と「漢字を仮名として」使用。「音(おん)仮名」+「訓(くん)仮名」+チャイナ文借用+当て字「四十七文字」+「ゐ・ゑ・を」を加えた五十音図。


   ひらがな・カタカナの語源
あ(安)  い(以)  う(宇)  え(衣)  お(於) 
か(加)  き(幾)  く(久)   け(計)  こ(己)
さ(左)  し(之)  す(寸)  せ(世)  そ(曽)
た(太)  ち(知)  つ(州)  て(天)   と(止)
な(奈)  に(仁)   ぬ(奴)  ね(祢)  の(乃)
は(波)  ひ(比)  ふ(不) へ(部)  ほ(保)
ま(末)  み(美)  む(武) め(女)  も(毛)
や(也)  ゐ(為)  ゆ(由)  ゑ(恵) よ(与)
ら(良)  り(利)  る(留)  れ(礼)  ろ(呂)
わ(和) ん(无)

ゐ(為)  ゑ(恵)  を(遠)

    カタカナの語源
ア(阿)  イ(伊)  ウ(宇)  エ(江)  オ(於)
カ(加)  キ(幾)  ク(久)  ケ(介)  コ(己)
サ(散)  シ(之)  ス(須)  セ(世)  ソ(曽)
タ(多)  チ(千)  ツ(州)  テ(天)  ト(止)
ナ(奈)  ニ(仁)  ヌ(奴)  ネ(祢)  ノ(乃)
ハ(八)  ヒ(比)  フ(不)  ヘ(部)  ホ(保)
マ(末)  ミ(三)  ム(牟)  メ(女)  モ(毛)
ヤ(也)  ヰ(井)  ユ(由)  エ(慧)  ヨ(与)
ラ(良)  リ(良)  ル(留)  レ(礼)  ロ(呂)
ワ(和)  ン(无)

ヰ(井) ヱ(衛の簡体語?) ヲ(乎)
 (ヱ(衛の簡体語は常用漢字に含まれないので表示不能)
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   本居宣長

仁斎・徂徠・契沖・真淵・宣長

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 本居宣長 - 玉勝間より

からごゝろを清くはなれて、古(ヘ)のこゝろ詞をたづぬる。そこで言(ことば)と事(わざ)と意(こころ)を一致させて「思い」を開いていく。
すると、そこにおのずと古来言語の本質が開示してくる。 そこで生じる秘蹟としての感嘆。「思い」。それが、彼のいふ「もののあはれ」であろう。

   「あがたゐのうし」


宣長と真淵の出会い。  一七六三年五月二五日  あがたゐのうしは古(ヘ)學のおやなる事
からごゝろを清くはなれて、もはら古(ヘ)のこゝろ詞をたづぬるがくもむは、わが縣居(ノ)大人よりぞはじまりける、此大人の學の、いまだおこらざりしほどの世の學問は、歌もたゞ古今集よりこなたにのみとゞまりて、萬葉などは、たゞいと物どほく、心も及ばぬ物として、さらに其歌のよきあしきを思ひ、ふるきちかきをわきまへ、又その詞を、今のおのが物としてつかふ事などは、すべて思ひも及ばざりしことなるを、今はその古(ヘ)言をおのがものとして、萬葉ぶりの歌をもよみいで、古(ヘ)ぶりの文などをさへ、かきうることゝなれるは、もはら此うしのをしへのいさをにぞ有ける、今の人は、たゞおのれみづから得たるごと思ふめれど、みな此大人の御蔭《ミカゲ》によらずといふことなし、又古事記書紀などの、古典《イニシヘノミフミ》をうかゞふにも、漢意《カラゴヽロ》にまどはされず、まづもはら古(ヘ)言を明らめ、古(ヘ)意によるべきことを、人みなしれるも、このうしの、萬葉のをしへのみたまにぞありける、そも/\かゝるたふとき道を、ひらきそめられたるいそしみは、よにいみしきものなりかし、


     からごゝろ

漢意《カラゴヽロ》とは、漢國のふりを好み、かの國をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、萬の事の善惡是非《ヨサアシサ》を論ひ、物の理(リ)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍《カラブミ》の趣なるをいふ也、さるはからぶみをよみたる人のみ、然るにはあらず、書といふ物一つも見たることなき者までも、同じこと也、そもからぶみをよまぬ人は、さる心にはあるまじきわざなれども、何わざも漢國をよしとして、かれをまねぶ世のならひ、千年にもあまりぬれば、おのづからその意《コヽロ》世(ノ)中にゆきわたりて、人の心の底にそみつきて、つねの地となれる故に、我はからごゝろもたらずと思ひ、これはから意にあらず、當然理《シカアルベキコトワリ》也と思ふことも、なほ漢意をはなれがたきならひぞかし、そも/\人の心は、皇國も外つ國も、ことなることなく、善惡是非《ヨサアシサ》に二つなければ、別《コト》に漢意といふこと、あるべくもあらずと思ふは、一わたりさることのやうなれど、然思ふもやがてからごゝろなれば、とにかくに此意は、のぞこりがたき物になむ有ける、人の心の、いづれの國もことなることなきは、本のまごゝろこそあれ、からぶみにいへるおもむきは、皆かの國人のこちたきさかしら心もて、いつはりかざりたる事のみ多ければ、眞《マ》心にあらず、かれが是《ヨシ》とする事、實の是《ヨキ》にはあらず、非《アシ》とすること、まことの非《アシキ》にあらざるたぐひもおほかれば、善惡是非《ヨサアシサ》に二つなしともいふべからず、又|當然之理《シカアルベキコトワリ》とおもひとりたるすぢも、漢意の當然之理にこそあれ、實の當然之理にはあらざること多し、大かたこれらの事、古き書の趣をよくえて、漢意といふ物をさとりぬれば、おのづからいとよく分るゝを、おしなべて世の人の心の地、みなから意なるがゆゑに、それをはなれて、さとることの、いとかたきぞかし、


     漢  意

漢國には、おほよそ人の禍福《サキハヒワザハヒ》、國の治亂《ミダレヲサマル》など、すべて世(ノ)中のよろづの事は、みな天よりなすわざとして、天道天命天理などいひて、これをうへなく尊《タフト》く畏《オソ》るべき物とぞすなる、さるはすへて漢國には、まことの道傳はらずして、萬の事はみな、神の御心御しわざなることをえしらざるが故に、みだりに造りまうけていへるものなり、そも/\天は、たゞ天つ神たちのまします御國のみにこそあれ、心ある物にあらざれば、天命などいふことあるべくもあらず、神を尊《タフト》み畏れずして、天をたふとみ畏るゝは、たとへば、いたづらに宮殿《ミヤトノ》をのみ尊みおそれて、其君を尊み畏るゝことをしらざるがごとし、然れ共、外(ツ)國には、萬(ヅ)は神の御しわざなることをえしらざれば、此天道天理の説を信じ居(ヲ)らむも、さることなるを、皇國には、まことの道の正しき傳への有(リ)ながら、それをば尋ね思はずして、たゞ外(ツ)國のみだりなる説をのみ信じて、天といふことを、いみしき事に心得居て、萬(ヅ)の事にその理(リ)をのみいふは、いかにぞや、又太極無極陰陽乾坤八卦五行など、こと/”\しくこちたくいふなる事共も、たゞ漢國人のわたくしの造説《ツクリコト》にて、まことには其理とてはあることなし、然るに神の御典《ミフミ》をとくともがら、もはらこれらの理(リ)をもて説《トク》なるは、いかなるしれわざぞや、近きころにいたりて、儒意をのぞきてとくと思ふ人も、なほ此天理陰陽などの説のひがごとなるをば、えさとらず、其|垣内《カキツ》を出(テ)はなるゝことあたはざるは、なほ漢意の清くさらで、かれにまどへる夢の、いまだたしかにさめざる也、又天照大御神を、天津日にはあらずとするも、漢意の小《チヒサ》き理(リ)にかゝはり泥《ナヅ》みて、まことの道の、微妙《タヘ》なる深きことわりあることを思はざるもの也、此大御神天津日にまし/\て、その御孫《ミマノ》命天より降り坐て、御國しろしめす御事は、人のちひさきさとりをもて、其|理(リ)は測《ハカ》りしらるべききはにあらず、おのが智《サトリ》もてはかりしることあたはざるをもて、其理なしとおもふは、例の小《チヒサ》きからごゝろなるをや、

  草のいほりに今日も暮らしつ

        


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   コトノハ断章 - 「おもひ」の先験性
         

 

        
       やまとうたは、意味から入らず、
       従来文法の機能論からも入らず。

    たとへば、
    万葉集第二巻第一六三
    「 〜 奈何可来計武 君毛不有尓」
    〜ナ・二・シ・カ・キ・ケ・ム  キ・ミ・モ・ア・ラ・ナ・ク・ニ 
    まづ、舌頭に載せたコトノハを
    全身へ、指先まで、落としこむやうに受け止める。そして、
    一音一音に聴き入りつつ繰り返す。〜
    それこそ陀羅尼のやうに、百万遍繰り返すつもりで。

    すると、貧しい一音でしかないのに、
    僅かなことばでしかないのに、
    コトノハが
    独自の法となり翼となり 具足したモノコト世界へ
    豊穣なおもひの世界へと、わたくしたちを連れ出してくれる。

    宇宙のスキマのやうな……
    原始宇宙の尻尾のやうな……
    オモヒの懐かしさに満ちた世界へ。

 

          




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注)哥座(うたくら)は、古くてあたらしい美術空間開発を主題に、韻文空間を研究している主に個人研究ツールとしての縦書きプラットフォームです。掲載文のほとんどは、哥座(うたくら)によるものですが、 一部は引用先の明示をしないまま、 引用データが混在している場合があります。もし、それらでお気づきになることがあれば、お手数ですが、ご一報ください。
対応いたします。なお、文学としての精確度を 求める向きは、しかるべき専門文学データへ直接当たることをお薦めいたします。


    

   
        

 

 


                   

 

 

 

 

                 

 

 
       
       
     
      
      
      
     
  徒然想起      080407  
「最新刊 花西行」
例年になく早いさくらが散り、山桜が見ごろの頃、秋山巳之流氏の最新刊「花西行」が届いた。差出人は、秋山巳之流。差出場所は、荻窪。とだけ書かれている。「うたくら」所在地と一丁目違うだけの同じ町内からだ。最近道ですれ違うことも少なくなり、昨年の新聞で彼の訃報を見た。しかし、これはなにかの間違いだったのだろう。先ごろのしのぶ会にも参加シナクテよかった。 この分だと、いつか次の新刊も送ってきそうだし、きっと、氏は生死の境目をうまくいき抜く仙術を得ておゲンキなのだ。          
  氏へ
   
   荻窪の戦前知らずさくらかな     有

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